百舌鳥古墳群を歩く ⑯ ~大山古墳とその周辺(丸保山古墳・菰山塚古墳)その5~

 永山古墳を一周し、再び中央環状線に出ると、横断歩道を渡り、大山古墳の西隣にあるラブホテルの裏にある丸保山古墳に足を延ばす。

 

 この古墳も仁徳天皇陵の陪冢として宮内庁の管理下に置かれているのだが、何故か後円部だけが陪冢(へ号飛地)として管理されていた。その後高度成長期に開発の危機にさらされ、昭和47年になり、前方部と濠も含めて丸保山古墳として史跡に指定されている。

 

 古墳全体は、墳丘長87mの帆立貝形古墳である。さらに詳細を述べると後円部径60m、前方部幅40m、後円部は2段築造であり、古墳の周囲を幅10mほどの周濠が巡っている。宮内庁が管理している後円部だけが鬱蒼と樹が茂っている状況である。

 

 前方部について、著しく低いのは、後世の改変によるもので、戦後一時は前方部の上に幼稚園が立っていた時代もあったそうだ。丸保山古墳については、発掘調査がなされておらず詳細なデータがないが、わずかに採集された円筒埴輪から5世紀の中ごろから後半にかけて築造されたと考えられている。

 

 百舌鳥古墳群の中の古墳としては比較的保存状態の良い古墳の一つである。出来れば周辺環境も含めて整備していただければと思うが、堺市の地価などを考えると厳しいかなあ。これ以上悪化しないようにだけはしてほしい。

 この丸保山古墳から西へ住宅街の中を歩いていくと、ポケットパークのような感じになっている菰山塚古墳を見つけることができる。
 菰山塚古墳は、かなり後世に削平を受けていてはっきりした元の形がわからないが、全長33m、後円部径18m、前方部幅28mの帆立貝型古墳であったと推定されている。ちなみに現在はぱっと見方墳か円墳のように見える。

 

 ただし、この菰山塚古墳も仁徳天皇陵の陪冢(ほ号飛地)として管理されている。陪冢をします石標も建てられていないので、住宅街の中にポツンと築山のように佇んでいる。古墳として認識している人も少ないかもしれない。

 

 この古墳についても、他の古墳と同様に発掘調査がなされていないが、採集された円筒埴輪から大山古墳と同時期に造られたと考えられている。この古墳も惜しむかな、ぎりぎりまで住宅が立っているので古墳の周囲をぐるりとめぐることはかなわない状況になっている。
 ※菰山塚古墳の写真だけは少し古い写真になっている。

 菰山塚古墳からもと来た道を引き返し、大山古墳の周遊路に出ることにしよう。<!–

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