岡山御坊跡 (前編)

 今回はパワースポット編です。

 ただし、今回紹介するのはパワースポットと呼ぶにはちょっと違うかもしれません。

 何しろ、今回は史跡だからです。

 それで今回取り上げるのは大阪府岸和田市にある岡山御坊跡。

 岸和田市にある、ため池としては大阪府最大の面積を誇る久米田池。その東側に岡山と呼ばれる丘陵地が

あります。この岡山に岡山御坊は造られました。

 ↓ 久米田池の西側にある久米田寺から岡山方面を望む。

 ちなみ久米田池は東大寺の大仏を造った聖武天皇の命により、奈良時代の高僧、行基が造ったものです。

 行基と言えば、前回採り上げた、大阪府堺市の土塔を造った人でもあります。

 この人。久米田池以外にもたくさんため池を造っています。お坊さんなのにどうして土木工事に精を出していた

のかというと、ため池は農業用水の水源として利用されるものですから、今でいうところの慈善活動の一環な

わけです。

 まあ、そんなところで、まずは岡山御坊の「御坊」の説明からしなければいけません。

 御坊とは浄土真宗における、門首が住職を務めるお寺のことです。もちろん、門首は浄土真宗の本寺にあたる

本願寺にいるので、御坊には不在で、実際には従来の住職が御坊のお留守居として住職を務めていました。

これを御坊お留守居と呼称します。

 久米田池から岡山御坊の向かう道。ここに「極楽通り」と書かれた道標だか碑だかがあります。信仰の名残と

いうやつでしょうか。

 現在でも信仰の跡が残っているのでしょう。

 ↓ 極楽通りより久米田寺方面を望む

 そして、岡山丘陵を登るとちゅうにある、今度は地獄坂なる名称。

 戦国時代から安土桃山時代にかけて、本願寺(この頃はまだ西本願寺と東本願寺には分れておらず、本願寺は

ひとつでした)は、現在の大阪城がある場所に存在しました。これを石山本願寺といいます。元々この場所は古代

よりパワースポットで、石山本願寺がここに築かれたのも、その後に秀吉が大阪城を築いたのもその辺に理由が

あったのではないでしょうか。

 11代門首であった顕如の時に、石山本願寺は織田信長と10年間に渡って戦いました。これを石山合戦といい

ます。

 この戦いは天正8年(1580年)、和睦によって終結し、顕如は石山本願寺を退去し、和歌山市の鷺森御坊

(本願寺鷺森別院)に遷りました。ここで3年間を過ごした後、天正11年(1583年)、貝塚御坊(願泉寺)に遷り、

さらにその2年後の天正13年(1585年)に新しくできた大坂の天満本願寺に遷るまでの5年間は和歌山と泉州が

浄土真宗の中心だったのです。

 ちなみに

 貝塚御坊は司馬遼太郎の『城塞(下巻)』にも登場するので、司馬遼太郎ファンの方は知っておられるのでは

ないでしょうか。

 また、貝塚御坊は貝塚市の北に位置しており、岸和田城は貝塚市に隣接する岸和田市の南に位置するため、

両所は歩いて行ける近距離にあります。参考まで。

 ↓ 貝塚御坊(願泉寺)の山門

 そんなところで岡山御坊です。

 岡山御坊の建立は文亀3年(1503年)、顕如が石山本願寺を退出して鷺森御坊に遷る80年ほど前です。

建立された理由は、浄土真宗の泉州南部への進出の拠点にするため、と伝えられています。

 そんな岡山御坊ですが、天正8年、顕如が石山本願寺から鷺森御坊に遷った同じ年に、織田信長の家臣で

岸和田城代を務めていた寺田又衛門によって焼き討ちされました。

 その後再建計画もあったそうですが、結局再建されないまま岡山御坊は消え去ってしまったのです。

 ちょうどこの頃、織田信長は和泉国や紀州の平定に取り掛かっていたのです。

 ↓ 岡山御坊跡。住宅地の角地にあります。

 ↓ 正面から。

 ↓ 地獄坂より久米田寺方面を望む

 現存する鷺森御坊や貝塚御坊に比べると、岡山御坊は消失してしまっているだけに、かつて存在したという

ことすら知らない人も多いかと思います。

 そして、岡山御坊を襲った災難が久米田の戦いだったのです。

 (つづく)

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