ピエール=ロラン・エマール ピアノリサイタル @東京オペラシティ(12月6日)

11月の怒涛のオーケストラ月間の名残りで楽器の音が恋しくなってしまい、たまたま前日にお安くチケットを譲っていただけることになったため、行ってきました。
普段クラシック音楽を殆ど聴かない&勉強もしない人間なのでエマールもメシアンも初めて聞く名前だったけど、現代音楽はマーラーチェンバーオーケストラの武満やバルトーク、フレイレのヴィラ=ロボスやポゴレリッチのラヴェルを聴いてどれもとても好みだったので、おそらくイケるはず・・・と。
軽く調べてみたら、メシアンという作曲家は鳥についての音楽を沢山書いていて、まるで中勘助みたい

しかしチケットを入手してから本日演奏される曲について改めてwikiってみたところ、そこには、、、

「演奏時間2時間を超える大曲であり

・・・・・2時間て・・・・・。
そんなの交響曲でも聴いたことないんですけど・・・・・
ここでようやく最近ツイッターを賑わせていた読響の話題を思い出したのでありました。「修業のよう」とも評されていた2幕だけで2時間あるという『アッシジの聖フランチェスコ』の作曲家の名前がそういえば「メシアン」だった・・・。そうはいってもあちらは歌唱もオケもあるオペラ。こちらはピアノ1台で2時間超え・・・。
とりあえず数時間前にカフェでyoutubeからウォークマンに落とし込んだ演奏のさわりだけ聴いてみたところ(全曲聴く時間はもうなかった)、現代音楽だから覚悟してたけど、想像以上にメロディがない。予習なしで2時間、耐えられるのだろうか私は。とりあえず「神の主題」と「星と十字架の主題」だけは耳に覚えさせて(これは単純なメロディで助かった・・・)、いざ討ち入り

タケミツホールは、3月のシフのラスト・ソナタシリーズ以来です

【メシアン:幼子イエスにそそぐ20のまなざし(全曲)】
会場について心からほっとしたことの一つ目は、プログラムが配布されていたこと。ちゃんと主題についても書かれてある。よかった、、、これで自分が何曲目を聴いているか見失わないで済む、、、。二つ目は、第10曲と第11曲の間に休憩があること。はぁ、、、、よかった、、、、シフのリサイタルの緊張感アゲインにならなくて、、、、、。

結論から申しますと、前半55分、後半65分はあっという間に過ぎました。あと2時間でも全然聴いていられる。やっぱり現代音楽って抽象画みたいで、色んな感覚が自分の中で喚起されて、聴いていてとっても楽しい
一方で、音楽を聴く楽しみとは別のところで、「神」と「信仰」について考え続けることになった2時間でもありました。そういう意味で、単純な楽しみや感動とは違うものももらうことになったリサイタルでした。

前半。
周囲の環境が全く宜しくなくて(音ではなく匂い)、全く集中できなかったのです。つまり、俗なものに神経をとらわれて、曲の世界に入り込むことができなかったわけです。実は同じことがこの曲をカフェでウォークマンで聴いていたときにも起きていて、この曲の神聖さが周囲の俗と全く溶け合わないことを興味深く感じていたのです。例えばベジャールのバレエを観ているとどんな俗なものも全てを許せてしまっている自分にいつも驚くのですが(長くは続きませんが)、今回はその逆パターン。そこで、「神」と「信仰」いうものについて考えないではいられなくなってしまったわけです。
メシアンは第二次大戦下にナチスドイツの捕虜収容所に収容された経験があって、そこで数多くのインスピレーションを得て作曲をしています。ユダヤ人の強制収容所よりは人間らしい扱いを受けていたとはいえ、それでも私が客席で神経を散らされた原因などとは比べものにならない俗な環境を経験しているはずなのです。でもその彼が作った音楽を聴きながら、そういう些末なものに気を散らしている今の自分はなんなのだろう、と。この世界の俗なものをすべて許せてしまう気持ちになる舞台や演奏会とこのリサイタルの違いはなんのだろう、とそういうことを考えないではいられませんでした。

後半。
気が散ってしまっていた原因は、後半はほぼなくなりました。集中して聴けた後半は、特に15曲「幼子イエスのくちずけ」以降は本当に素晴らしくて、エマールも渾身の演奏で、トリップ状態に近い感覚を感じることもありました。
しかしそうなればなるほど、それほどの素晴しい演奏を聴いているにもかかわらず、どこか「外側」からこの曲の世界を見てしまっている自分がいました。「私の音楽」と感じることができないのです。
「求めよ、そうすれば与えられる。探せ、そうすれば見出す。たたけ、そうすれば開かれる。」
聴きながら、聖書のこの言葉が浮かびました。曲も演奏も、私を拒否してはいませんでした。この扉を叩いた全てのものを、この神は必ず受け入れてくれる。それはわかっていました。でも今目の前にある扉は、どうも私の扉ではないのです。それははっきりと「キリスト教の扉」であるように私には感じられてしまったんです。私の神とは、やはり少し違うようなのです。その「少し」が、私にはとても大きく感じられました。
それは素晴らしいキリスト教の絵画と対峙したときの感覚と似ていました。圧倒される。でもそれは「私の絵」ではないのです。私はその内側にいません。
でもキリスト教の芸術すべてがそうなわけではなく、「私の絵」、「私の音楽」と感じられるものもあるのです。例えば先月聴いたブラームスのドイツ・レクイエムやこれまで聴いたバッハやブルックナーなどがそうでした。この違いはなんなのか。純粋に「キリスト教」度の違いのような気もするし、そうじゃないような気もするし・・・。
ただ確実に言えることは、例えばこの曲をより身近に、キリスト教徒でない私により近づけた演奏があったとして、それを聴けば「私の音楽」と感じられるだろうかというと、やっぱり違うと思うのです。今夜の演奏は、この曲にはこれ以上ない演奏だったと思います。

私は世の中のあらゆる神様というのは究極的には同じものだと思っていて、その考えには今も変わりはありません。しかし同じことをその前段階の「宗教」にも言えるのかというと…。素晴らしい曲で素晴らしい演奏であったがゆえに尚更、「宗教」と「信仰」と「芸術」の関係について考えないではいられなくなってしまったのです。シベリアの収容所を経験した祖父が描いた向日葵の絵も、頭をよぎりました。

帰りの電車は、ブロムシュテットのドイツ・レクイエムを聴きながら帰りました。ほっとしている自分がいました。少なくとも今の私を救ってくれるのは、メシアンよりもブラームスの神のようです。でも他のメシアンの曲もとても聴いてみたいと強く思います。たとえそれが今の私の音楽ではなかったとしても。来年の都響のトゥーランガリラ交響曲、行こうかなあ。

ところで、演奏途中(18曲目)で高音の弦が一本切れたそうですね。演奏後に近くの席の方達がオペラグラスで確認しながら色々話していて、私は全然気づかなかったので、皆さんすごいなぁと感じました。
そもそも弦が切れても音って鳴るの?と帰宅してからyoutubeで弦の切れたピアノ演奏というものを聴いてみたところ、音自体は鳴るのですね。というかこの気の抜けた音、昔うちのピアノでもなったわ!とン十年目にして原因を知った私でありました。親は知っていたでしょうが。

エマールのインタビュー

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